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 最近はメディアでも医療過誤(malpractice)の問題が取り上げられることが多くなったが、きょうはこの問題を少し考えてみたい。
 2007年6月27日の朝日新聞(朝刊)に、次のような記事が出ていた。

「出産で後遺症」
出産方法の選択を誤ったために男児が脳性まひになったとして、横浜市青葉区の両親と男児が、東京都町田市の町田市民病院の男性医師と、病院を経営する同市に約1億8000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が26日、横浜地裁であった。三代川俊一郎裁判長は、医師の過失を認め、2被告に約1億3800万円の支払いを命じた。
 判決によると、03年6月7日午後5時40分ごろ、医師は吸引分娩(ぶんべん)を試みたが効果がなく、同6時半ごろに帝王切開を行った。男児は仮死状態で生まれ、新生児低酸素性虚血性脳症で脳性まひになった。
判決で三代川裁判長は「午後5時半ごろ帝王切開を選択していれば、障害は回避できた」とした。

 要するにこの判決は、問題の医者はもっと早く帝王切開を行なうべきだった、と言っているのだ。換言すれば、早期に帝王切開を行っていなかったという不作為と男児が脳性まひになったこととの間に因果関係が認められたということである。一般的に言って、法律上、不作為に責任を認めることは非常に難しい。例えば、深夜、自分の子供が急に熱を出して、かかりつけの医者に往診をお願いしたが、医者が特別の事情もなく往診をせず、そのためにその子供が亡くなった場合、その医者が往診しなかったこと(不作為)と子供の死に因果関係を認めることは通常は困難であろう。医者が往診していたとしても、その子供は亡くなっていたかもしれない。この場合には因果関係は認められない。では、医者が往診して子供の命が助かった可能性があった場合には因果関係は認められるのだろうか?この場合は医学上の因果関係は認められることがあるだろう。だが、法律上の因果関係もあるとしてよいのだろうか? 医学上の因果関係と法律上の因果関係はその目的とするところが異なるから、この2つがまったく同じということはない。また、法律上の因果関係といっても、民事と刑事では事情が異なってくるだろう。同一事件が、民事では因果関係が認められるが、刑事では認められない、ということはよくあることだ。刑事事件には刑罰という重い責任が伴うからだ。上記の横浜地裁の裁判は民事事件であるから、その点は医者の責任が認められやすくなった可能性がある。しかし、いずれにせよ、不作為に責任を認めることは、一般的な社会通念から言って、普通のことではないから、被告の医者がその後控訴した可能性はあるが、その点は不明である。
 この事件は、上に述べたように難しい法律上の問題が絡む上に、医学上の問題も含んでいるように思われる。事実関係の詳細はわからないけれども、この判決によると、最初に吸引分娩を行なうのではなく、帝王切開を実施すべきだった、と読める。私は医学には素人だから専門的なことはわからないけれども、常識的に考えた場合、いきなり帝王切開というのは母体に負荷をかけすぎるように思われる。最初は穏やかな方法で試みるのが常識ではないだろか。この事件の場合には、穏やかな方法を採るべきではない切迫した状況(子供が仮死状態で生まれたこと)ゆえに、医者には帝王切開という選択肢しか残されていなかったのだろうか。もしそうであるならば、「仮死状態 → 帝王切開」という医学的措置が医学界で当然のことと認められているのかどうかの検証が必要になるだろう。
 
私が上の事件を医療過誤の一例として取り上げたのは、医療過誤の判定はやっかいなもので、専門的な判断を伴うものであるということを言いたかったためではない。実は、この事件のような難しい判断を伴う医療過誤は意外と少なく、ほとんどの医療過誤はうっかりミスなどの単純なミスによるものなのだ。最近私が読んでいた英語の本に紹介されていた、アメリカであった医療過誤の一例を紹介してみよう。

 
この事件はある女性が扁桃摘出のために入院したが、実際の手術では片足の一部を切除されてしまった。なぜ、こんなミスが起こったのか? 担当の外科医が足の一部を切除し始めたとき、チームを組んでいた他の7人の医療スタッフはとんでもないミスが起こっていることに気が付いてはいたが、外科医が怖くて、誰も何も言えなかったという。

 実は私が読んでいた本は医療関係の本ではない。対話や会話といったコミュニケーションの大切さを説いたCrucial Conversations Tools for Talking When Stakes Are High という本である。この本によると、上のケースの場合は、担当の外科医が「偉い人」で周りの者が何かを言うと不利に扱われる恐れがあったので、何も言わなかったという。本には次のように書いてある。
 
Of course, hospitals don’t have a monopoly on fear. In every instance where bosses are smart, highly paid, confident, and outspoken, people tend to hold back their opinion rather than risk angering someone in a position of power.
(もちろん、病院だけが恐怖を独占しているわけではない。ボスが切れ者で、高給取りで、自信にあふれ、ずばずば物を言う場合には、周囲の人は権力者を怒らせるくらいなら自分の意見を差し控えたほうがよいと思う傾向がある。)

 英語に “Bystander Syndrome”(傍観者シンドローム)という言葉ある。これは、事件や事故が起こってそれを大勢の人が見ている場合、各人が誰か他の人が助けるだろうと思って自分では何もせず、結局誰も助けないという事態が起こることをいう。Bystander Syndrome が起こってしまうのは、偶然集まった大勢の人に共通の情報が欠如しているからだろう。でも、上の本を読むと、組織が権威主義的である場合、その構成メンバーがたとえ良識を備えていたとしても、Bystander Syndrome と同じようなことが起こってしまうことがわかる。つまり、権威主義・秘密主義は、関係者の沈黙を助長し、防げるはずの単純ミスを生み出してしまう土壌を作ってしまうということだ。
 こう見てくると、医療過誤を防ぐには、医療技術を向上させるだけでなく、医療にたずさわる人たちの poor communication の改善が大きな問題となってくる。組織や集団内に自由に物を言える雰囲気を作り、当事者の共通の情報をもっと増やす努力をするならば、医療過誤のかなりの部分が減ることは間違いないであろう。

 

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中澤幸夫プロフィール

中澤幸夫

中澤 幸夫

ナカザワ ユキオ

1944年東京生まれ。一橋大学・経済学部卒業。


毎日新聞社を経て、現在は翻訳家・著述家・予備校講師。一橋学院にて長年にわたり英語講師をつとめる。大学入試英語のための参考書を多数執筆。『話題別英単語リンガメタリカ改訂版』(Z会出版)、『英文解釈のトレーニング必修編』(Z会出版)、『速読英文読解 高校上級用』(日栄社)など著書多数

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